落し物が帰ってきた話。
定期入れを掏られた(多分間違いなく)のは、ある年の9月初頭のこと。幸いお財布と定期入れを別にしていたので、金品の実質上の被害は無かったものの、12月に退職を控えた私にとってはかなり痛い紛失でございました。
というのも、当時私が勤務していた会社の交通費支給は、半年分定期券の現物。退職時には期限の残った定期券を人事部に返却しなければならなかった訳でございます。で、会社の期割りというのは4・9月ですので、その時私が持っていた定期は支給されたばかりの新品だったんですね。
残り3か月分の交通費を自分で出すのも痛かったんですが、問題はその先。定期券の現物を返却しない場合には、その額を自腹で人事に返さなければならない、という規約があったもんですからさあ大変でございます。
電車自体も相当なものでしたが、駅から自宅までのバスの定期がこれまた相当高額な代物でして、両方の3か月分を耳揃えて現金で返すとなると、(何せ勤務期間も短かったんで)退職金が半分近くなくなってしまう、という事態に立ち至っちゃったんです。
それは、悶々と悩みつつ、そろそろ腹を括ろうかと諦めかけた10月の半ばの事でした。私には縁もゆかりも全くありゃしない、とんでもない場所の駅から、突然会社のデスクに電話がかかって来たんです。
「実はですねえ、当駅に、あなたの定期券の落し物が届けられたんですよ」
定期券には、名前と企業名が書いてあったものですから、そこから辿って連絡を呉れたらしいんですね。いやもう、その時の私の心境といえば、まさに「欣喜雀躍」という言葉がぴったりこんでございましょうとも。退職金の半分!諦めていた半分!嗚呼!
という訳で、きちんと調べて対応してくれた駅員さんに感謝し、更に拾って届けてくれたヤマナカさんという方の連絡先も駅員さんに伺い、ホクホク顔で電話を切った私。お礼及び迷惑でなければお菓子の一折でも送らせて頂こうと考え、早速ヤマナカさんのおうちに電話した訳です。
で。
(中年女性の声)「はい、ヤマナカでございます」
(私)「あのう・・・(ここで名乗っても相手には判らないだろうと思い、とりあえず本人と話そうと考えて)ヤマナカカズシさんをお願いしたいのですが」
(女性)「(突然にかなりの切り口上で)ムスコは出かけておりますがドチラサマですかどういったゴヨウケンでしょうかッ」
うはははは!おかーさん、勘違いなさっておいでです!いやあ、よほどご自慢の可愛い可愛い息子なんでございましょうねえ。第一声は温かみのある上品なお声だったので、そのギャップがまた可笑しかったったら。
という訳で、改めてかくかくしかじかと状況を説明し、アナタの大事な息子さんのおかげで私がどれだけ助かったかをお話いたしましたら、流石にお母様もほんのり早とちりを恥じ入られたご様子で。
「あら、あらあら、まあ・・・それは丁寧にご連絡頂きまして、息子にもよく言っておきますわオホホホホホ」
せめてお礼にお菓子折りのヒトツも、とのこちらの申し出は、とても丁寧にかつ強硬にお断りを頂きました(まさかとは思うが、「この女これをキッカケにうちのムスコに手を出そうと」と勘ぐられたんじゃあるまいな。うはは)
「落し物」と聞くと、今でもあの時の恥ずかしそうなご母堂の声を思い出します。今頃どうしてらっしゃるのかしら、きっとあの時あれだけお母様が神経質になってらした位だから、計算するとそろそろカズシさんもご結婚なさっているのかしら、揉めただろうなあオヨメさん大変だろうなあ・・・と、ぱぱぱぱぱっと連鎖的な発想が脳裏に浮かんでしまう私。っていうか、もうこの話10年も前の事なんだわ・・・うううっ。