furotarou2004-12-28

ありがとう。またね。
追記。
名前は、奏良(そら)の予定でした。早すぎた命名のせいか、早々にそらに行ってしまいましたが、何でも染色体不適合の早期流産の子は、「忘れ物を取りに戻った」のだと言います。どうやら母に似て粗忽者だった様子。なので、「またね」と。忘れ物ちゃんと持って、またね、と。
今回、一つ気が付いた事があります。それは、「私がいまだに不妊にとらわれ続けている」という事。むん子を産んだ時点で解放されてもいい筈なのに、私はまだ、不妊であったことから解き放たれていないようなのです。
一つ、大事な事を書き忘れていました。私は、今回の妊娠自体はとても嬉しかった。「流産がさほど辛くない」事と「妊娠を喜ばなかった事」は、決して同義ではありません。決して。私は、妊娠したと確信したとき、本当に本当に喜んだのです。むん子の弟か妹は欲しいし、夫婦の年齢から言ってリミットも期近です。だから、本格的に妊娠が確定した時には心から嬉しかった。いや、そもそも、確定する以前から、排卵日を過ぎると必ず飲酒をストップして葉酸を飲み始め、電磁波防止エプロンを着用し・・・と、半ば妊娠ノイローゼと言ってもいいような事をしていたのです(もしかするとこれはある意味、「これだけやってもダメだったのだから」と、自分を納得させる一助になっていたのかも知れませんが)。
でも、一方で、排卵日の数日後から体調がおかしな方向に崩れていたのも事実でした。最初は子宮外妊娠を疑い、それが故に、妊娠検査薬が陽性になっても病院にいくのが怖かった程です。最初の検診の時には、超音波で子宮内に浮かぶ胎嚢を見て、思わず涙しました。絶対に守る、そう思って、避けねばならぬ事は徹底して避けました。ビタミンAを摂らないように、極度に動かさないように、冷やさないように・・・。でも、体調は悪い方向に向かっているし、むん子の時にはばっくんばっくん心拍が鳴っていた6週目でもまだ胎芽の影すら見えず、むん子は16ミリだった8週でも、胎嚢が1センチに満たず・・・私も、色々考えてあきらめざるを得なかったのです。
そんな時に、私の中の「石女の私」が叫んだ訳。「目の前に子供がいて、更に、もしかするとまだチャンスがあるかも知れないという事実が判明して、それでもまだ勝手に嘆くの?自分ばかりが辛いと思えるの?それってちょっと贅沢過ぎない?」と、ね。
他人に言われたら、「それはそれ、辛い事は辛い事で誰と比べるものでもない」と言い返せましょう。でも、叫んでいるのは自分。なので私は、「そうかあ」と納得するより他は無かった訳です。
更に言うと。
むん子誕生後半年、私はもうまさにストレスまみれの駄目親でした。一瞬でもいいから子供から逃げたいと思い、自分を見失って、「このままだと私は死ぬしかない」とまで思いつめた事も幾度もあります(今となってはまさに笑止ですが)。そんな時、私をかろうじて踏みとどまらせてくれたのは、実は、不妊で苦しんでいた・・・一番辛かった3年の重みでした。「あんなに辛い思いをして望んだものが今手中にある、なんて勿体無い悩みを抱えてうろうろしているんだ、きっと大丈夫、大丈夫」そう思わせてくれた3年間があったからこそ、私のような堪え性の無い不適正な親でもあの時期を乗り越えられたような気がします。つまり・・・不妊の3年間は、私が親として踏みとどまるための重要な前段階だったのではないか、と。
勿論これは思い込みです。でも、私はやっぱり、「今在る事は、次に繋がる重要な前段階だったのだ」と思いたい。思わずにはいられません。
奏良は、むん子が産まれたのと同じ病院で、母のおなかから出て行きました。幸い、担当の先生がとても・・・全く、とても大学病院の医師とは思えないほどに・・・良い方で、この事が残念ながら淘汰として一定の(しかも比較的高い)確率で起こり得るべき事であり、いつまでもおなかに居て欲しい気持ちは判るけれどそれがリスキーである事、そしてこの処置が何より次のために必要である事を、とても真摯に説明してくれました。
心身ともに本当に疲弊しましたが、それでも、何かを羨んだり悔やんだりする気持ちは全くありません。街を行く子連れの母親や妊婦たちにいわれの無い憎しみを抱いて毎日吐き気と共に暮らしていた頃を思い起こすまでも無く、今回の事は、ちゃんと「家族の中の事」として大事にしまうことが出来ます。忘れる事も、無駄に悲しむ事も無く。
「このことを書くのはこれで終わり」とは、だから言いません。むん子が産まれた事や一昨日テレビを見た事、引っ越した事やトマトを食べた事、旅行に行った事やビールをこぼした事と同じように、これもオットと私の中のひとつの出来事なのですから。
という訳で、長い追記おしまい。