掃除機をかけようとすると、むん子は必ずと言って良いほどおもちゃ箱の中の「ひらがなつみき」をほじくり出して箱を引っくり返し、“そ”のピースを片手に掃除機を追い掛け回します。
彼女が、“そ”のピースの裏に描いてある非常に記号的な掃除機のイラストと、目の前にあるいわゆる「ホンモノの掃除機」とは同じものである、ときっちり認識したのは、むん子が1歳を越えてしばらくした頃でありました。イラストの掃除機は、ホースと吸い込み口と本体部分がまるまっちい図で描いてあるだけの至って記号的な代物で、我が家にある実際の掃除機とは色も違います。なのに、ある時からむん子は、「これとあれとは同じもの」と認識して、掃除の度毎につみきを引っ張り出す、と。そう、そういえば、最初に“そ”のピースをほじくり出して私に差し伸べた時、彼女はひどく興奮していましたっけ。私自身も、「どうしてわかったの?」とそりゃもう大興奮したのですが。
いわゆる“記号”としてのバナナや林檎も、実際の姿とは大分違いますわよね。絵本の中の犬や猫、花鳥草木だって、余程写実的な物で無い限り、あくまでも“総的な記号としての”形状である事が多い訳で。平たく言えば、「頭に3つ刻みがあれば誰が何と言おうとそれはチューリップの花」、みたいな“暗黙の了解”がそこにはあるんですが。
まだ完全な意味での言語の習得・認識が足りない子供が、一体どうやってその「記号=実際」を理解するんだろう?というのは、ずっと私の謎でありました。同様の意味で、コッカースパニエルとラブラドールレトリーバーとトイプードルが全て“犬”であると、子供はいつから理解するのだろうか?というのもまた、私の興味の対象だった訳であります。いわゆる、非常に程度の低い「認知論」の世界ですな。
それなのに、日々に取り紛れている間に、既にむん子はその段階を越えてしまいました。ポメラニアンを見れば「ワンワン!」ヒマラヤンを見れば「ニャンニャン!」ときちんと区別するし、前述の通り、記号と実際とのリンクの方法もいつの間にか見つけた模様。絵画が超絶的に苦手な私の描くみかんやりんごも、ちゃんと解読している様子だし・・・子供の脳内と言うのは、よく言われる通り、本当に恐ろしい勢いであちこちが繋がっていくんだなあ、と実感する毎日でございます。ヘタすると、なんかこうばんばんシナプスが結合していくぴちぴちという音まで聞こえて来そうですわ<まさか。
で、まとわりついて来るむん子足蹴にしつつ散らばった積み木(何せ50音分!“そ”をマイナスしても49ピース)を蹴散らして掃除機かけながら認知論についてぐずぐず考えていたら、久しぶりにとってもディレイニーが読みたくなってしまいました。嗚呼、じっくり腰をすえて読書したいよう。